No.031 | 近代物理学の歴史 長岡半太郎から湯川秀樹へ | 2枚組 | 1,100円 |
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近代物理学の歴史です(長岡半太郎から湯川秀樹へ)
・お大師さんはイエスキリストの生まれ変わり!!
・初期キリスト教徒には十字架はなかった
・合インとして「魚」の画が用いられた
・肉を食べる者はキリギスに魚を食べる者は日本へ
長岡半太郎(日本の物理学の創始者)
土星型原子モデルを提唱
もともと磁歪の研究をしていた
のちに研究の対象は原子構造論へ
・1865年(慶応元年) 長崎県大村市で生まれる
・1882年 東京帝大理学部に進学
・1887年 帝大大学院に進学
・1890年 助教授に就任
・1893?1896年 ドイツに留学
ルート ヴィヒ・ボルツマンに師事する
・世界の物理学の最新情報を日本に積極的に送っていた
・1897年明治28年 ドイツのレントゲンによってX線が発見された
これが原子物理学の幕開けになった
・1897年 イギリスのトムソンが電子を発見
・フランスのベクレルはウランが放射線を出しているのを発見
・1897年キュリー夫妻によって放射線の強いラジウムを発見
・ドイツでは光のスペクトル分析
・プランクは光の粒子とする仮説を立てた
・そしてアインシュタインへ
・1903年 トムソンはぶどうパンのような原子モデルを提唱
・1904年 長岡半太郎は土星型原子モデルを提唱 説明不十分で注目されなかった
・1911年 アーネスト・ラザフォードが原子核を発見 再び土星型原子模型を提唱
・1913年 ニールス・ボアがボアの原子模型を発表し解決
・1922年 アインシュタインが来日した際は宮中で相対性理論の講義を行った
・1926年 60歳で定年退職するまで帝大教授を務める
・定年後、理化学研究所主任研究員として研究を続ける
・1931年1934年 初代大阪帝国大学総長
・1934年1947年 貴族院議員
・1939年1947年 日本学術振興会理事長
・1939年1948年 第13代帝国学士院院長
その間1937年 初代文化勲章受章
その間もスウェーデンのノーベル賞委員会でいろんな人を推薦している。
Mr.パーフェクト
・1950年 12月11日 満85歳死去
八木秀次
1886年(明治19年)大阪で生まれる 1976年(昭和51年)90歳で死す
・日本の工学者(電気工学)
・1913年にドイツ、ドレスデン工科大学に留学
・内閣技術院総裁
・大阪帝国大学総長
・八木アンテナ株式会社社長
・参議院議員
・文化勲章
・阪大理学部 物理学科の初代主任教授のとき、
講師として在職していた湯川秀樹先生に叱咤激励後にノーベル賞を受賞する
中間子論に関する論文に繋がる
・技術院総裁時代に井深大と盛田昭夫を育てる
・江崎玲於奈・西沢潤一両先生に学士院賞を推薦する
・「本質的な発明ができるようになる為には
心眼で電波が見えるようにならなければならない」と教えていた
仁科芳雄(物理学者)
日本に量子力学の拠点を作る
宇宙線を研究対象に
サイクロトロン(核粒子加速装置)を完成させる
・1914年(大正3年) 東京帝国大学 電気工学に入学する
・1918年(大正7年) 理化学研究所に入る
ここに二年間籍を置き、東大大学院で数学と物理を勉強する
・1920年(大正9年) 欧米留学
イギリス、ドイツそしてデンマークのニールス・ボアの研究所へ
ここで本格的な物理学者として成長していく
ハイゼンベルクやシュレーディンガー、ディラックと共に量子力学について研究する
クライン・仁科の公式をまとめる
・1928年(昭和3年) 帰国 翌年結婚
・1929年 ハイゼンベルクとディラックが来日した際通訳をし、有名になる
・木村教授が仁科先生を京大に呼び量子論の講義をする事になる
その講義を湯川秀樹や朝永振一郎が聴いていた
・1931年(昭和6年) 理研の主任研究員に任命
仁科研究室が発足 4つの研究テーマを掲げる
量子論、原子核の研究、X線の分光学そこから宇宙線へ、核物理学素粒子
朝永振一郎 嵯峨根遼吉を研究所の2大柱に
その中で研究員たちはのびのびと自力を発揮していった
日本の物理学を世界のトップレベルへと引き上げていった。
・1933年(昭和8年) 仁科先生は東北大学で行われた日本数学物理学会に出席
そこで湯川先生に与えた助言が中間子論の大きなヒントになる
・1937年(昭和12年) ボアが夫人と息子と共に来日
・1945年(昭和20年) 空襲により研究所が焼失。軍の命令で広島へ原爆の調査へ
・1946年(昭和21年) 文化勲章
・1949年(昭和24年) 湯川秀樹 ノーベル賞受賞
・1950年(昭和25年) 11月 発病
働きて 働きて病む 秋の暮
・翌 1月10日 60歳の若さでこの世を去る
学閥とは無縁に自分で選んだ道を全力疾走した生涯
それを支えたのは科学への一途の愛と常に人を思いやる優しさであった