No.050 | 西田幾多郎の哲学と生涯 | 2枚組 | 1,100円 |
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戦後の困惑したなか、知識に飢えた若者達が徹夜して並んでまでも手に入れたかった哲学書がありました。
それは、生活と共にある生き方を示した日本独特の哲学書、西田幾多郎(にしだきたろう)先生の「善の研究」でした。 災害続きの今の日本も、ある意味戦後の日本と変わりません。
今一度、我々も西田哲学に学び新しい日本を造って行くべきと思います。
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・加賀の三太郎と言われた人達(西田幾多郎・鈴木貞太郎・藤岡作太郎)
・威厳高き父親と慈愛深き母親の中で育つ
・漢籍が得意だった西田(これで学問に火がつく)
・数学・物理に美しい秩序を感じていた
・西田は終生数学の師、北条 時敬先生を慕っていた
・姉を失い深い悲しみの中で西洋哲学と出会う
・十八才・第四高等学校でで生涯の友と出会う (山本良吉・鈴木大拙・藤岡作太郎)心身ともに充実していた時期
・学問に対する姿勢の違い
・二十一歳、東大選科生の屈辱・西田家の没落・両親の不破
・懐中日記のことばに「広くなくとも深く」(西田の人生の指針になった)
・二十五歳でいとこの寿美と結婚
・両親と妻を巻き込んだもめごとが家庭を揺るがす、その苦しみから西洋書物を読み漁る
・西洋思想には東洋思想にない論理性があることに気づく(禅で行を 行じる)
・西洋と東洋がぶつかり出口をもとめた
・物となって見・物となって聞く、過酷な禅の修行その闇の中に一条の光を見る
・絶対的自己否定の先の見えざる力
・29歳の時に父が亡くなり寿美と復縁
・学生が付けた西田のあだ名「デンケン」考える人「デルシュデンケン」叱る人
・32歳で学問は生きるためにあると言う
・鈴木貞太郎に西洋の倫理学を「水とパン」でうまくたとえる
・根源に遡りときあかすことをせんげんする
・1910年40歳で京都大学助教授になる、ここから禅の研究がうまれる
・純粋経験を原理にする
・禅の研究が学生たちの心をとらえる
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・急速に進む西洋化の中で自己を見失って悩む若者達に答えを出した人
・子煩悩だった西田、長男を溺愛
・哲学の道の自然石に「人は人 吾は吾なり とにかくに吾が行く道を吾は行くなり」とある
・40代に「自覚における直感と反省」本を書く
・純粋経験から真の実在は自覚に現れると考える
・幸せから再び不幸へ、そして暗闇から光を見る「復活」
・苦悩の末に西田哲学が見えてくる(物来たって我照らす)
・57歳から場所の論理 述語から物を見る 思考の転換期 個をなくす
・自覚や場所の説明に鏡を使う
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・宇宙論の兆しにも似ている
・場所の論理とは個とそれを包む場所の行動を明らかにすることである
・他の場所と出会うことで進化・生成・発展する
・場とは社会であり家庭であり世界でもあり宇宙でもあると言っている
・西洋では神・東洋では無・絶対無と表現
・西田先生の短い伝記
「私の生涯は極めて簡単なものであった。 その前半は黒板を前にして坐した、その後半は黒板を後にして立った。黒板に向かって一回転をなした、これで西田の伝記は尽きる
・鎌倉で学問三昧にふける
・ある時の西田の変化(山田琴さんと見合・結婚をする・孫の誕生)
・不穏な時代に突入(京都学派が右翼の標的になりかける)
・愛弟子 三木清が治安維持法で捕まる
・教え子の近衛文麿を諌めていく
・70才の時に文化勲章受章 日本最高の頭脳と言われる
・山本と西田の対談(過激すぎて戦争が終わるまで公表されなかった )
・世界新秩序の原理を提出(ニュー・ワールド・オーダー)?
・軍が西田の考えを歪めて書き換えたため疑いを受ける
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・後に京都工芸大学の大橋良介が西田先生の疑いを晴らす
・当時、京都大学文学部の助手大島 康正が残した「大島メモ」の危ない内容
・一度、やるべきことをやらないとこの国(日本)は目覚めません。
・戦時中リュウマチで書いた山本良吉への気迫の手紙の内容
・1945年6月7日西田の突然の死享年75歳 書きかけの書「私の論理について」
・戦後、知識に飢えた若者が西田哲学に群がった
・ニューワールド・オーダーの真意
・正義を振り回す国に正義はない。
・正しいこと、正しくないことは簡単に割り切れない。
・人間は人間として生きることにまだ成熟していないのか?
・哲学者西田・禅学者鈴木大拙