No.065 | 明治維新、日本の夜明けを演出した緒方洪庵と塾生達 | 2枚組 | 1,100円 |
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緒方洪庵先生の偉業と大坂の中心地にあった適塾から輩出された門下生達が、日本の基礎を作り上げたという事実に触れ心が高揚するとともに、明治の文明開化は、国威高揚の軍事だけでなく、医学、科学の学問が日本の風土に熟成しながら歩み始めた時代だと感じました。
Track1
・明治を語るには江戸の末期を語る必要がある
・長与専斎(長崎大村藩)回想録からみる緒方洪庵先生の適々斎塾の様子
・適塾姓名録から全国から来た門人1,000人
・適塾が若者を惹きつけた理由
・緒方洪庵先生の出生と経歴
・中天遊に師事し医学だけでなく理学、天文暦学も学ぶ
Track2
・儒学者(中井履軒)が蘭学(麻田剛立)を援助し敷居がなかった大坂
・『解体新書』の前、安永2年1773年にでていた『越爼弄筆(えっそろうひつ)』
・学問が融通無碍であった大坂
・科戸(しなと)の神のお話
・蘭学の水準をあげた中天遊の師橋本宗吉(元番傘紋職人)
・1833年22歳に江戸の三大蘭方医、坪井信道の安壊堂入塾
・1809年に独人が蘭訳した『人身究理紹介』人体生理学書を
日本で最初に翻訳した洪庵先生
・自身での原書翻訳する重要性と喜び、洪庵先生の学問の原点
・摂州名塩の医師 億川百記の援助による天保7年長崎留学
・天保9年春29歳大坂瓦町で蘭方医として開業し、17歳であった妻八重を迎える
・大坂町医番付 前頭4枚目に張り出された頃の洪庵先生の応診時の薬箱の様子
・開業しても蘭学本の翻訳に打ち込んでいた洪庵先生
Track3
・安政5年コレラ猛威時に『虎狼痢治準(ころりちじゅん)』一巻まとめる
・安政4年から文久元年の4年かけてフーフェランド先生の50年の臨床実験を
教科書風にまとめた最新の内科書『扶氏経験遺訓(ふしけいけんいくん)』30巻
・洪庵先生36才 町医西の大関番付時、過書町の両替商町屋を購入適塾へ
・大坂除痘館を設け種痘組織的普及活動し、公的使命を徹底する
・オランダ人ポンペ医師の対処法に日本人の体質に調整した対処
・座右の銘 直筆の『扶氏医戒之略(ふしいかいのりゃく)』
・語学力の養成に重点をおいた適塾の内容
・実力主義の適塾授業風景 8?10段階のクラス分け
・翻訳合戦
・師の背中、後姿
Track1
・明治を作ったのは全国から集まった洪庵先生の弟子達
・『ワンダーベルト』最新の物理学書(蘭語)翻訳に取組む福沢諭吉
・安政元年9月18日露「軍艦ディアナ号」大坂天保山沖へ来航、
通訳のない町奉行が適塾に応援を頼む
・ニコライ司教に『古事記』を教えた新島襄
・蘭学を通して医学から軍事学へ軸足が変わっていった適塾
・大塩平八郎の乱以降の国の大リストラ
・山本覚馬の建白書を実行できる弟子を育てた洪庵先生
・大村益次郎(近代陸軍の基礎を固める)
・佐野常民(赤十字社創設、初代社長)
・長与専斎(種痘事業の国策化)
・福沢諭吉『西洋事情』発表1866年(明治2年)ベストセラー
Track2
・文久2年 奥医師に任命され江戸へくだる
・洪庵先生の長崎の息子への手紙
・医学所の頭取の兼任を命じられる
・文久3年1863年6月10日突然の大量の客血
・東京 駒込 高林寺に埋葬、大坂 天満 龍海寺に遺髪を納められた
・1864年8月連合艦隊(英米仏蘭)下関報復攻撃 開国論台頭
・函館五稜郭設計 洪庵の弟子武田斐三郎
・官軍(大村益次郎)旧幕府軍(大鳥圭介)適塾門下生同士の箱館戦争
・高松凌雲(同愛社設立)赤十字思想実践日本福祉活動の魁
・佐野常民(博愛社設立)博愛思想に基づく適塾門下生の開花
・幕末の維新期にあらゆる分野に活躍した洪庵先生の弟子達
Track3
・弟子達に蘭語メース(先生)と呼ばれていた洪庵先生
・洪庵先生に腸チフスの治してもらった福沢諭吉は終生感謝していた
・福沢諭吉と勝海舟が犬猿の仲の訳
・アメリカでクラーク先生の教えを受けた新島襄が、来日への依頼をした
・札幌農学校1回生大島正健(札幌バンド)クラーク先生の薫陶を受ける
・大島正満(大島正健の長男)新島襄に
・明治5年福沢諭吉『学問のすすめ』冒頭について
・学問の急務を予見し、実践し、多くの人材を世に多く送っていたのが適塾
・福沢諭吉の緒方洪庵先生への漢詩
・洪庵先生が学ぶ時期について
・洪庵先生の妻 八重さんの葬儀行列には2KM並んでいた
・大坂 中島懐徳堂の教授 中井竹山 中井履軒 麻田剛立
・富永仲基、幕臣大塩平八郎も入門していた壊徳堂
・大坂の風 大坂の空気