No.075 | 日本建築学会の祖「伊東忠太」と宗教探検家「大谷光瑞」の出会い | 2枚組 | 1,100円 |
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明治・大正・昭和三つの時代を破天荒に生きた二人の話が面白いです。
(建築家であり妖怪博士の伊東忠太・西本願寺第22代門主 大谷光瑞)
track1
・伊東忠太(慶応3年1867?昭和29年1954)
・幼少から幻視がみえた忠太
・本業は建築家であり、又妖怪博士でもあった。不思議な二面性を持つ
・東大生から東大教授になり文化勲章をもらう(業界初。)
・1892年(明治25年)大学院から奈良法隆寺の研究に取り組む
・西洋かぶれ(辰野金吾?)を嫌った忠太
・岡倉天心の影響を受ける忠太(アジアは一つ)
・明治6年・法隆寺建築論を発表その時、世界最古の木造建築だと発見する
・忠太にとって法隆寺は日本の美の根拠であった
・ある日、法隆寺の柱がパルテノン神殿のエンタシスに似ているのに気づき
世界に旅立つ
track2
・日本建築学会図書館に忠太の旅の資料が残っている
・彼のスケッチ能力の凄さ(ディズニーやジブリに匹敵)
・好奇心に貪欲な忠太
・旅の夢を克明に日記につけた
・1902年6月中国山西省で雲崗石窟(うんこうせっくつ)仏教寺院の発掘
・世界を回る内に木造作りのポリシーから石造りに変わっていく
・1905年東大の建築学科の教授に昇任
・忠太の趣味
・特殊な配線(頭)の持ち主
track3
・1909年建築進化論を発表、3年後に西本願寺の門前に奇妙な建物を建てる
・木造作りの良さを残しながら石造りに進化させていく
(現・伝道院1912年竣工)
・世界で見てきた妖怪が彫刻されている
・西本願寺第22代門主 大谷光瑞と伊東忠太の不思議な縁
・人間としての許容範囲が広すぎた二人
・妖怪と付き合えるのは古代人の発想
track4
・忠太の幼少の育ち方(山形の米沢)
・昔の化物の多さ、今の化物の少なさの理由
・医者の家系だった忠太
・よく悪さをして家の蔵に入れられた忠太(実は喜んでいた?)
・晩年に書いた「忠太自叙伝」出生から中学まで
・幼少の時の目に見えない物(妖怪)の話
・拝み屋さんVSお医者さん どちらが良くなる?
track5
・1912年 明治神宮の創建依頼がくるが色んな誓約が・・
・五年後 韓国に朝鮮神宮を造る
・化物(妖怪)のことを考えるのが好きだった忠太
・化物を描く難しさ
・当時、忠太は天皇を中心には考えていなかった
・妖怪に親愛の情を持っていた忠太
・大谷光瑞と気が合った忠太
・築地本願寺を建立する(インドの石窟寺院を真似る)
・破天荒な二人はやがて、それぞれの地位を追い出される
・大谷探検隊を三度出した光瑞の思い
・日本の仏教を世界に広めようとしていた光瑞
・やがて神戸六甲山中に二楽荘を建てる(二人の夢の結晶)
・当時、京都市と同じ予算を使っていた光瑞
・歪められた光瑞の思想
・ただ、ただ、自分の為に建てたかった忠太
track1
・時事漫画を書いていた忠太
・文化勲章をもらった人には宮内庁から羊羹が送られる?
・振幅のある人生を楽しむ光瑞
・静かに妖怪のスケッチを楽しむ忠太
・1949年国宝法隆寺壁画の炎上
・伊東忠太、昭和29年4月7日86歳の生涯を終える
・自分を客観ししていた忠太
track2
・数々の建築を手がけた忠太
・忠太の面白い建築の一つ一橋大学兼松講堂(妖怪が一杯ある)
・大学施設のほとんどは中世ヨーロッパ修道院に起源がある
・ゴシックとロマネスクの違い
・妖怪の姿にも意味があった
・南方熊楠と伊東忠太
track3
・忠太の先輩辰野金吾の功績
・高橋是清に英語を習う
・息子・辰野隆の教え子は日本のフランス文学の祖
・宗教家・本願寺の門主・探検家・伯爵であった大谷光瑞
・王侯貴族から貧乏を経験し楽しんだ光瑞
・光瑞の家系・奥様の謎
track4
・隠居後三年間は日本にいなかった光瑞
・複雑な家系の意味
・戦争と光瑞
・世の中は良くなってきている
・妖怪全集が流行りそう
・目明きの不便
track5
・実は法隆寺の柱とパルテノンの柱の証明はできていない
・ギリシアに行った忠太は何故証明しなかったか?
・これらを検証する
・薬師寺123代管主・橋本凝胤と弟子の高田好胤
・和尚さんの聞いた当時の話