No.062 | 日本の誇れる先人 内藤湖南を語る | 2枚組 | 1,100円 |
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世界が認めた日本の東洋史学者 内藤湖南(ないとう こなん)、とその湖南が認めた
文人・学者の方々の話もして頂きました。
Track1
・内藤 湖南 1866年8月27日ー1934年6月26日
・湖南先生の有名な言葉「森深く日に新たなり」
・弟子の高橋克三氏が秋田県鹿角市に「蒼龍窟 」(そうりゅうくつ)を作る
・湖南先生の名前は「虎次郎」だった。湖南は号
・両親はともに学者で幼いころから才能を見せた。
・「読書百篇意自ずから通ず」(四書五経の素読)
・幼くして、祖母・母・兄を亡くし素読に勤しむ
・大人になってから、小さいころの自分を書いた(嫌われ者であった)
・虎次郎から湖南へ名前を変える(父の影響・十和田湖から)
・1880年、鹿角の小学校で比較競争試験を受ける(尾去沢の虎と呼ばれた)
・後輩、大里武八郎先生の湖南の昔話
・二十歳で毛馬内村(けまないむら)の小学校の首席訓導(校長)になる
・このころから、夜更かしをして本を読むくせが一生つづく
Track2
・虎さんの才能を見つけた人
・郷里を捨てた理由
・ジャーナリストになった虎さん(湖南)
・処女作「近世文学史論」を出す
・湖南の持論「文化を生み出すものが土地であり時代である」
・湖南が、文人・学者から目を付けた三人のお話
富永 仲基(とみなが なかもと)
山片 蟠桃(やまがた ばんとう)
三浦 梅園(みうら ばいえん)素晴らしい方々です。
Track3
・1899年9月、34才で念願の中国旅行に出発、後 「燕山楚水」(えんだんそすい)・清国西遊紀代を出す
・これらを皮切りに何回も中国に行く
・世界から中国問題なら湖南に、と絶賛される
・「お釈迦様でも孔子でも学歴(帝大卒)のない人間は(帝大教授として)認めない」
何故、師範出の湖南が京都大学教授に・・?
・東洋史学では湖南しかいない。
・邪馬台国論争で、東の白鳥(九州説)・西の湖南(畿内説)で二分する
・文献学派(白鳥)と実証学派(湖南)の違い
・後輩史学者 宮崎市定 (みやざき いちさだ)の湖南に対する素晴らしい評価
「内藤史学は立体的であると言う、中国から日本を見る日本から中国を見直す
政治から文学を見、文学から・・・・ 続く」
・松本信弘先生が偶然パリで湖南に会って尋ねたこと
・湖南の東洋史学の特徴 (脈々と続いた実証主義)
・4300枚の写真の意味
・世界の満州史のバイブル
・人が来ると素直に喜んだ湖南先生
・芸術家でもあった湖南先生(山本空外談)
Track1
・1933年10月 日満文化協会のため満州に行く
・この時、胃癌の兆候が出るがそれでも行く湖南の思いの強さ
・国家にとってもっとも望ましいこととは?(文化が政治を支配すること)
・満州で撮った記念写真その中の鄭孝胥(ていこうしょ)が恭仁山荘に訪れる
・恭仁山荘 湖南が晩年(69才まで)すごした加茂の山荘
・末娘が後に話した父湖南の強さと自身
・湖南の残した素晴らしい業績・教え
・1934年6月26日死去。京都東山 法然院に眠る
・富永 仲基(とみなが なかもと)の心情が分かる和尚さん
Track2
・UFOの違う見方・考えかた
・昔、プラズマを作っていた和尚さん
・いつも問題意識を持っていることが大切だ
・江戸時代と明治時代
・文化の華が開いた江戸時代
・江戸時代にも邪馬台国論争はあった
・数学者 望月 新一先生の業績
・時には無限が見えるときがある
・今でも算学が神社に奉納されている
Track3
・最近のガン医療は少し変わってきた?
・1グラム 3億3千170万円する抗がん剤!
・現在は栄養過剰の栄養失調
・エストロゲンのホンマの話
・亜鉛の取りすぎはダメ。
・昔はマラソン講演を平気でこなしていた和尚さん